ソラノイエ便り
私の下呂移住物語 vol.02 ~メルボルン編(前編)~
このブログはシリーズで、「田舎」に興味を持ち始めた頃から私の下呂移住にまつわる物語を書いています。
Vol.01を読んでからぜひこちらをお読みください♫
さて、2012年の2月、いよいよ旅立ちの時。ワーキングホリデービザを取得して、最初の3ヶ月の語学学校を決めた。最初の一ヶ月のホームステイ先も決めた。そのあとのことは、その時に決めようと、特に何も考えずに出発の日を迎えた。また学生になれるのかぁという、これまでとまるで違う自分の立場に半端なくワクワクしていたのと、無職の身軽さのうれしさがいっぱいで、もう今しかこんなことはできない、これまでの自分へのご褒美だ、やりたいようにやろう!と心に決めた。
飛行機は、中部国際空港→成田空港→ケアンズ→メルボルンという行程。何度も海外旅行には行っていたし、ひとり旅もしていたから、そんなに心配はしていなかった。どきどきのまま、ケアンズに着いて、荷物をピックアップして、国内線に乗り換え。まだ時間はあるし、ということでカフェでお茶をした。いつ掲示板に表示されるかな〜なんて思って待っていたけど、なんだかおかしい。みんな、もう営業終了、みたいな感じになっていて、必死に「メルボルン!」と言って聞いてみるのだが、みんなに「??どこ?」という顔をされる。今思えば当たり前なんだけど、日本語の「メルボルン」という発音と、オージーの「Melbourne」とではまったく違う。LとRの発音の違いもよくわかってないし、メゥボーンという感じでみんな発音しているので、当時の私にはかなり難関だった。必死で説明した結果、国内線は歩いて10分と言われた。当時は、Domestic(国内線)という言葉も知らなかったと思うし、何よりも、日本語英語は英語じゃない、ということに気づいた出来事だった。
そんなこともあったが、無事に着いて、ホームステイ先にも到着できた。
ホームドラマで見るような、あたたかいホストファミリーを期待していたけれど、どちらかというとルームシェアのような感じで、あまり交流もなくさっぱりとしていたので、どんな家族だったのか、今となっては思い出せない。
最初に驚いたのは、夜が長いこと。到着した2月は真夏で21時くらいまで普通に明るい。そしてもっと驚いたことは、シャワーの時間が決まっていること。1人3分。
これは、家庭の事情とかではなく、オーストラリアという国がとても乾燥しており、すでに何週間も雨が降っていない状態で、地域としてそういう条例のようなものが出ているらしかった。最初は、え、3分?どうやって?と思ったが、特に何も問題なかった。
英語がわからなすぎて、ホストファミリーとの会話もままならない状態で、学校生活が始まった。
全て細かく書こうとすると終わりが見えないので、少し端折って書きたいと思う。
メルボルンは思っていた以上に素敵な街だった。
街にはトラムという路面電車が通っていて、どこに行くにもこれに乗っていけば便利だった。
ヨーロッパの影響を強く受けたことが感じられる英国式の建物が多く、学生街というだけに図書館がとっても充実していて、毎日いても飽きなかった。
久しぶりの学校はとっても楽しくて南米や韓国、台湾の友達ができて学校帰りにBBQをしたり、カフェでお茶したり、パブでビール飲んで帰ったり、というまさに「休みを満喫」という感じだった。学校にも慣れて来たところで、ホームスティ先を出て、自分の住む場所を探さなければという時期になり、ここからが本当のオーストラリアでの生活の始まりだったと思う。
英語がほぼ話せない私にとって、ローカルな人がするような部屋探しはかなりのハードルだったけど、友人の友人がメルボルンに在住していたので、彼女の力を借りて、部屋を探した。
メルボルンでは、単身の場合、大抵の人はシェアをして住んでいて、私もそうした場所を探すことに。ただ、オーストラリアの物価はとても高い。基本給料も高いので、家賃もきちんと高かった。今思えば、バックパッカーホステルに泊まるのも良かったんじゃないかなと思うけど、その時の私は、しっかり生活の基盤を作れるところで暮らしたいという思いで、シェアできるところを探した。
日本のような仲介業者はないので、検索はネットでして、自分で電話問い合わせをする。これも私にとってはとてもハードなことだったが、最終的には友人に助けてもらって、セントキルダという海のそばの街で同世代のカップルとシェア生活をすることになった。
憧れの海のそばでの暮らし。
毎日海辺を散歩できる、毎日夕日がみれる、素敵なオージーとニュージーのカップルと一緒に暮らせる。そんな夢かと思うくらい憧れの暮らしが、はじまった。
後編(vol.03)へ続く!